2012年1月27日
共汗の作業場,記念樹の桜,涙坂の壁画-38年の日々 いざ,さらば-
3・11東日本大震災から既に半年以上の歳月。国を上げてその復興の道筋を模索するが、福島原発事故がそれに絡んで、なかなかその見通しを言葉に出来ない。しかし、時間だけは確実に明日を刻んで待ってはくれない。蕫人間の不幸は壁一つ?の諺のように被災地の皆さんは毎日が現実であり、毎日が立ち直っていくための闘い。千葉の私たちは被災地の皆さんと蕫何が出来るか?の心は継続しつつ、自分の抱えている難題に立ち向かう。
当園本館は小高い峠上に立地。眼下は水郷穀倉地帯の一面の緑。鹿島臨海工業地帯の高い煙突。その先の鹿島灘の水平線。大利根が一直線に絶景を横切る。
この土地にお世話になって38年。8畳の4人部屋、食堂と風呂と便所があるだけの簡素な本館。「十年経てば人も山も変わる」の十年一昔の四昔。「親亡き後のこの人たちの幸せ」「この地をこの人たちの生きる一つの理想郷に」。そんな夢を語りながらヨロヨロと頼りない足取りで何とか四昔を生き延びた。本館の横に木工作業場完成。(S49年6月)。手芸作業場完成は昭和53年。陶芸作業場は昭和49年築。その後何回も改修。天井の梁と囲炉裏が目を惹く居酒屋蕫礼舎?は施設らしくない建物と評判に。
山梨身延山久遠寺天然記念物の枝垂れ桜の孫桜が記念樹として植えられた。木工桜、荘内柿、椎木の木。本館周りは記念樹だらけ。それらの木々も四昔を生き延びて一抱えするような大木となり、この人たちの蕫喜び悲しみ汗と涙?を見守った。園に至る坂道をちちははは涙坂と呼ぶ。その涙坂の擁壁に壁画。この人たちとちちははと職員の交歓図。四昔、この坂道を往き来したこの人たち、職員、ちちはは、関係者…。何人かのこの人たちはその坂道を下って二度と戻ってくることはなかった。
23年11月、四昔の思い出の詰まったそれら建屋、記念樹、壁画…。そしてそれらはもう二度と見ることはできない…。
(武井)