2012年6月8日
日本の原発全てが停止した。
水上勉の生まれ所在は福井県大飯町字岡田。彼はそのことをこう書いている。「私が生まれ育った若狭の生家は、村で乞食谷と呼ばれた谷の上にあった。人間は暮らせないところだということか、死体を埋めるさんまい谷のとば口にあり、谷の所有者で松宮林左衛門という素封家の薪小屋を借りて住居にしていた。…」(泥の花・河出出版)
読者諸氏は水上勉の小説の何処に惹かれるか。彼は小坊主修行からはじまって、30以上の職業を転々。人間社会の奥底を見つめ続けた作家。名もない庶民の希望と絶望、父母慕情、ただ切ないだけの人生が自分の生きざまと重なりながら語られていく。S36年”雁の寺”で直木賞。東京時代、池袋文芸座で見た”飢餓海峡”。主役の樽見京一郎役は三国連太郎。日本映画の白眉的作品。そんな彼は敗戦間近の昭和20年、生まれ在所の若狭の分教場で代用教員として働く。そのことを彼は”31年目の分教場”として著している。
「…孝ちゃんは、知恵おくれというだけで、他人にめいわくはかけなかった。めいわくといえば、うんこを時々もらすことぐらいだった。こんなことは低学年なら知恵おくれの子でなくてもやることだった。ただ、もう一つ困ったのは、なけなしの配給の画用紙をあたえて、課題の絵をかかせようとすると、孝ちゃんだけは、クレオンでまっ黒かまっ赤にしてしまって、わらっていたことだ。…そんな孝ちゃんが20年に入って急に頭角をあらわすようになった。それは、本校からの指示で、学業は休みにして、午前中から蕗と芋の葉をとって供出しろという命令だった。何貫目の割当てがなされたかはわすれたが、30人の子らを動員して、高野、今寺の野生の蕗を朝から千切って束にし、リヤカーで本校へ運ぶのが日課になった。この蕗は司令部のあった東舞鶴へおくられて兵隊の食料になったときいた。…戦争は敗け戦の兆しをみせていた。だが、それを教師がしゃべるわけにゆかなかった。それで、毎日が暗い気分だった。暗い気分を晴らすのは、一日、山を走りまわって子供らとあそぶことだった。…孝ちゃんは蕗とり上手だった。どういう勘が働くのか、ぼくらがもうそこにはないと思って断念していた谷へ入って、2時間も顔を見せないと思うと、なんと背中いっぱいに背負って汗だくでやってきた。これには参った。孝ちゃんの収穫した蕗は、30人の半分ぐらいあった。自慢するでもなく、にこにこしているだけだった。これが疎開の子らを励ます結果になった。知恵おくれの孝ちゃんでさえ、こんなにとるのだからサボッていたはずかしいという思いが子らに芽生えた。
ある日、ぼくたちは、今寺の部落からさらに北上して、大人でもあまりゆかない深い谷へ入り込んだ。…。夕方になった。点呼してみた。孝ちゃんの顔がなかった。心配になった。日も暮れかかっていた。孝ちゃんの姿をみた者はなかった。そこで手分けして、谷から谷の暗いところや危険な箇所へ声をあげてさがしにいった。「孝ちゃーん、孝ちゃーん。ええかげんにやめてあつまれやァー」。どこからも孝ちゃんは出てこなかった。山は暮れるのが早くて、なすび色になった。ぼくは青ざめた。岩場へ落ちでもしていたら大変だ。知恵おくれの子を、こんなふうに働かせていたことが、急にくやまれて、ぼくは眼先がまっ暗になった。「孝ちゃーん、孝ちゃーん」と子らとともに、それから30分ほどさがして歩いた。ある谷の奥だった。一人の男の子の声がした。「孝ちゃんいたぞォー、孝ちゃんいたぞォー」。ぼくは、子供らをつれてそっちへ走っていった。と、孝ちゃんが、母からつくってもらった大人用の背負い籠に、蕗の束をなんと自分の背丈ほど背負ってくるではないか、にこにこして。「孝ちゃんいたぞォー、孝ちゃんいたぞォー」。呼んでいた子は泣いていた。迎える子らも、声をあげて泣いた。あかね色の空の下で泣く子らは美しかった。…」
筆者は曾て、水上勉の生まれ所在を歩いたことがある。彼の言う”乞食谷”とはいったいどんなところだ。水上ファンとしては長いことそれが気になって仕方なかった。敦賀から小浜線に乗り換え若狭本郷駅下車。大飯町役場は小さな駅舎から程近い。駅から佐分利川沿いに歩いて2㎞。近畿地方は関東とは違う独特の茅葺屋根の民家が昔ながらの集落を形成している。岡田集落は背後に杉山を背負う。前は水田が佐分利川まで続く。出会った姉さ被りのおばさんが「つとむさんの家のあと」を教えてくれた。乞食谷から歩いて10分。勉さんが私財を投じて作った”若州一滴文庫”。館長は勉さんの兄さん。館内で偶然お会いし「兄さんによく似ておられますね」と声を掛けると「私が兄です」…。佐分利川に沿って田舎町に似付かわしくない立派な集合住宅群。大飯原発家族宿舎だ。高度経済成長の日本。60.80年代に次々と作られていった原発。大都会の繁栄を支えるため勉さんの生まれ在所は、”原発銀座”となっていった。勉さんは1970年以後日本の国は自然、風土の荒廃が顕著になり、人間の心の荒廃も進んだと書く。「日本人は、いまやこころを失った。狂人の国である。経済成長だけを呪文のようにとなえているうちに奈落に落ちたのだ」。”泥の花”の中で「私の生まれた若狭にある故障続きの放射能たれ流しと噂されている、高速原子炉ふけんもんじゅから送られる電気…」とある。原発のあり方に強いいらだちを隠さなかった勉さん。
04(平成16)年85才で逝去。
12(平成24)年5月5日、日本の原発全てが停止した。